古代朝鮮半島と倭国 七世紀の歴史
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文明の曙


東アジアで新石器文化
最後の氷河期が終わり人類が定住化に向かうのは現在から1万2000年ないし1万年前だ と推測されている。
この間、過酷な自然環境の中で生き残ってきた人類は、温暖化し た環境の中で比較的、容易に生存することができた。
彼らはしだいに植物を栽培し、野生動物を家畜化すること にも習熟しはじめた。

新石器時代の集落は、農業に必要な物資が豊富であり、かつ魚を獲 るのに便利な場所である河川の近くに場所を占めた。
また土地が肥沃で、周辺に狩猟できる多くの動物が棲息している必要があ った。
東アジアで新石器文化が最初に発生したのは、このような自然条件をそなえて いる場所であつた。

20世紀前半に黄河文明仰韶文化が発見されて以来、黄河流域で多くの遺跡が見つかったことで中国の文明の発祥は黄河流域であり、その後次第に長江流域などの周辺地域に広がっていったとの見方が支配的であった。

しかし1973年・1978年の発掘調査で発見された浙江省余姚市河姆渡遺跡(かぼといせき)により、この説は覆される。河姆渡遺跡は紀元前6000年から紀元前5000年頃のものと推定され、大量の稲モミなどの稲作の痕跡が発見された。稲作を行っていた事からその住居は高床式であった。

このように河姆渡遺跡は明らかに黄河文明とは系統の異なるものであり、それまでの「中国文明すなわち黄河文明」という当時の定説を大きく覆す事になった。

更に、東北の遼河周辺でも文明の痕跡が発見されるに至り、現在では遼河周辺、黄河上・中・下流域、長江上・中・下流域に分類し、それぞれが互いに影響しあい、かつ独自の発展を遂げていったと考えられている。





中国の新石器文化の一覧→Wikipedia


黄河文明

最終氷河期が終わり、温暖化が進むと、世界に大河を中心に、氷河の雪解け水が大量に発生した。
肥沃な土が中下流に氾濫し土壌が堆積して様々な植物が繁殖した。
その中には、人類の主食となる原始的な穀物もあった。
そして、人類はそれを改良して、繁殖させ、定住化を実現した。

黄河流域では、一万年以上前から、初期の文明が芽生え、発展していった。
そして新石器時代の代表である仰韶(ヤンシャオ)文化から竜山(ロンシャン)文化をへて、殷・周の青銅器文化に発展した。
黄河流域は肥えた黄土地帯で発生した,東アジアで最古の原始農耕文明である。
四大文明の一つとされる。

黄河文明は,彩陶 (彩文土器) を使っていた仰韶 (ヤンシャオ) 文化 (紀元前5000年頃から紀元前3000年頃)
黒陶を使っていた竜山 (ロンシャン) 文化 (紀元前3000年頃から紀元前2000年頃) に大別することができる。

彩陶文化の時期には,アワ・キビなどの穀物栽培やブタ・イヌなどの飼育が行なわれ,氏族共同体的な集落が形成されていた。
黒陶文化の時期には,農業技術が発達し,ウシやウマの飼育も行なわれて,城壁で囲まれた村落 (邑〈ゆう〉) も形成されていた。
なお,この2つの文化と重なって,鬲 (れき) ・鼎 (てい) などの3本足の土器を中心とする灰陶が多数発見されている。

裴李崗文化(はいりこうぶんか)
時代:紀元前7000年頃から紀元前5000年頃
遺跡:(代表)河南省新鄭県裴李崗
住居:円形・方形の竪穴式住居
農耕:粟などの畑作
土器:紅褐色の陶器
石器:磨製石器
特長:平等主義であり、政治組織はほとんどなかったと考えられる



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賈湖契刻文字(かこけいこくもじ)→Wikipedia

老官台文化(ろうかんだいぶんか)
時代:紀元前6000年頃から紀元前3000年頃
遺跡:陝西省華県県城の南西(渭河の支流・西沙河の沿岸)にある老官台遺跡
住居:定住して集落
農耕:アワなどの雑穀類を栽培
牧畜:ブタや犬
土器:比較的低温で焼いた土器が見つかっている。彩陶(彩色土器)はまだ萌芽状態
石器:工具は磨製石器が主であったが、打製石器や細石器なども少なからず発見
其他:甘粛省秦安県の大地湾遺跡・西安市臨潼区の白家村遺跡

北辛文化(ほくしんぶんか)
時代:紀元前5300年頃から紀元前4100年頃
遺跡:標式遺跡は1964年に発見された山東省南部・滕州市(当時は滕県)の北辛遺跡
住居:定住して集落
農耕:採集や狩猟のほかに、雑穀を栽培する原始的な農業
牧畜:ブタやスイギュウなどの飼育
土器:黄褐陶(砂混じりの土を低い温度で焼いた陶器)や紅陶(きめ細かい泥を高い温度で焼いた陶器)でできた鼎などの調理器が発見され、一部ではさらに高い温度で焼いた灰陶や黒陶も出土している。
石器:石斧や石鎌などに用いた磨製石器や打製石器、骨角器なども発見
其他:中国北部(華北)山東省の黄河下流域で発見された新石器時代の文化


磁山文化(じさんぶんか)
時代:紀元前6000年頃から紀元前5500年頃
遺跡:標式遺跡は、河北省武安市磁山で発見された磁山遺跡
住居:定住して集落、住居跡として円形の竪穴式住居
農耕:雑穀の栽培を中心とした農業
牧畜:ブタ、イヌ、ニワトリの飼育痕跡が発見、漁労活動の痕跡も発見
土器:鼎形陶器が出土
石器:磨石や石斧などの石器
其他:貯蔵用の穴(窖穴)が500以上発見され、雑穀を貯蔵していたと考えられている

仰韶文化(ぎょうしょうぶんか)
時代:紀元前5000年頃から紀元前3000年頃
遺跡:仰韶村遺跡は1921年に河南省澠池県仰韶村で発見された
住居:集落が完全に環濠で取り囲まれていた。
   半坡遺跡は、仰韶文化のもっとも有名な溝で囲まれた集落
農耕:粟を耕作していた。麦や米を耕作していた村もあった。
   小規模な焼畑農業か永続的な農地での集約農業か
貯蔵:余剰の穀物を格納するために使われた可能性のある高床式建築
牧畜:豚や牛、そのほか羊、山羊、および牛のような動物を飼っていたが、
   それらの肉の大部分は狩猟や漁業で得ていた。
土器:彩陶で有名である。仰韶の職人は美しい白、赤、および黒の彩陶で
   人面、動物、および幾何学模様を作成
石器:石器は研磨されており、非常に専門化されていた。
其他:この文化が主に栄えた地域は、河南省、陝西省および山西省
其他:これらの遺跡からは半坡文字と呼ばれる文字に近い記号も発見
特長:前期(紀元前4800年ころ)は紅陶が主流で、
   代表遺跡は陝西省西安市半坡、韶半坡類型文化と称されている。
   母系制で、農村の階層化がみられる。
   前4000年頃にろくろの使用が見られる仰韶廟底溝類型文化が現れた。
   後期(紀元前3500年以降)は、半坡後期類型・西王村類型・大司空類型
   ・秦王塞類型の四種の文化に大別され、
   このころには貧富の差がみられ、社会の分業・階層化が進んだ。



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後岡文化(こうこうぶんか)
時代:紀元前5000年頃から紀元前4000年頃
遺跡:代表遺跡は河南省安陽市後岡
住居:房屋是圓形半地穴式
土器:出土的器物中最具特色的陶器
其他:北辛文化を継承して発展
河南北部から河北にかけて分布する仰韶文化の一標式

大汶口文化(だいもんこうぶんか)
時代:紀元前4100年頃から紀元前2600年頃
   大汶口文化に関係するのは遺跡の層の中でも中間部分だけ
   深い層は北辛文化(紀元前5300年 - 紀元前4100年
   新しい層は龍山文化(紀元前3000年 - 紀元前2000年)に関係する
発掘:トルコ石・ヒスイ・象牙などでできた加工品、および陶器が多く発見
遺跡:遺跡は黄河下流の山東省泰安市付近に集中
   黄海沿岸・渤海南岸から魯西平原の東部、淮河北岸の一帯にまで広がっている
   隣接する安徽省、河南省、江蘇省からも少数の発見報告がある
   1959年に山東省泰安市岱岳区の大汶口鎮から発見された遺跡に由来

時期別特長:
   早期(紀元前4100年 - 紀元前3500年
   ・発掘物から見て階級差は大きくない
   ・人骨の性別などから当時の社会は母系氏族共同体だったと推測される
   ・鬹(き)といわれる三足器(陶製の三本脚の調理器で、脚が長い)
    や紅陶でできた鼎(てい、かなえ、三本足の器)など
    多様な形をした陶器が特徴的
   ・早期も終わりには土を盛った墳墓も多くなる
   中期(紀元前3500年 - 紀元前3000年
   ・陶器は紅陶にかわり灰陶・黒陶が増え、量の大さや文様・形が多様になる
   ・父系氏族共同体へ移行し父系社会が確立
   後期(紀元前3000年 - 紀元前2600年
   ・墳墓の中に木製の棺が現れる
   ・父系氏族共同体の末期に入り階層化が進み、副葬品のない墳墓がある一方で
    大量の副葬品が発見される墳墓もある
   ・灰陶・黒陶が主流となり、器の厚さは薄く精巧
   ・黒陶や卵殻陶(卵の殻のような薄さの陶器)を特徴とする龍山文化に繋がる

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龍山文化(りゅうざんぶんか)
時代:紀元前3000年頃から紀元前2000年頃
地域:龍山文化は黄河中流に存在した仰韶文化に続いて登場している
文化:黄河中流から下流にかけて広がる新石器時代後期の文化
   黒陶が発達したことから黒陶文化ともいう
遺跡:龍山文化は、中原龍山文化(河南龍山文化と陝西龍山文化)
   および山東龍山文化に分かれている
   山東龍山文化:黄河下流を中心に存在した大汶口文化に続いて現れた
   河南龍山文化:黄河中流に存在した仰韶文化に続いて登場している
   陝西龍山文化の遺跡・陶寺遺跡(紀元前2500年 - 紀元前1900年)は
   龍山文化の都市遺跡の中でも最大級のものであった
   (渭河沿いは後にシルクロードと呼ばれる西域への交易路の起点となった)
   さらに長江流域など後に漢民族の文化が栄える地域一帯に影響を及ぼした

発掘:陶器の生産の効率の上昇が顕著
   出土する陶器の数や種類が前の文化に比べ増大した
   鼎や鬲、鬹、高柄杯など、
   調理器や食器として使われた多様な黒陶・灰陶の陶器が出土している。

   石包丁など石器や骨器などの武器や道具
   ヒスイなどの玉なども出土している
   龍山文化の後期には青銅器も出現しており、
   殷代・周代(あるいは夏代)の青銅器時代に入る過渡期

都市:龍山文化の社会に現れた大きな変化は、都市の出現
   初期の住居は竪穴式住居であったが、やがて柱や壁を建てた家屋が出現
   土を突き固めた城壁や堀が出土
社会:私有財産が出現し社会の階層化
   父権制社会や階級社会が誕生
人口:新石器時代の人口は、龍山文化で一つのピークに達した
   龍山文化の末期には人口は激減
産業:農業と牧畜業が仰韶文化の時期に比べ大きく発展
   コメの栽培も始まる
   カイコを育てる養蚕業の存在と小規模な絹織物の生産の開始
宗教:動物の肩胛骨を使った占いや巫術も始まる

墳墓:龍山文化の末期には副葬品から高品質の卵殻陶・黒陶なども見られない



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斉家文化(さいかぶんか)
時代:紀元前2400年頃から紀元前1900年頃
文化:新石器時代末期から青銅器時代初期の文化
   斉家文化は仰韶文化の後の時代
地域:黄河上流の甘粛省蘭州市一帯を中心とし、
   東は陝西省の渭水上流に及び、
   西は青海省東部の湟水河流域に、
   北は寧夏回族自治区および内モンゴル自治区に及ぶ。
遺跡:遺跡の数は300か所以上
   斉家坪遺跡のほかに甘粛省永靖県の大河荘遺跡と泰魏家遺跡、
   武威市の皇娘娘台遺跡、青海省海東市楽都区の柳湾遺跡などがある。
   青海省民和回族土族自治県の喇家遺跡もこの文化との関係がみられる。
農業:粟類が陶器から発見されており、農耕文化があったことがわかる
牧畜:馬の飼育の痕跡はこの文化の遺跡で広く見られる
土器:黄色陶器で、紋様が表面に描かれており中でも縄紋が多い
卜占:動物の骨を焼いて占いを行っていた
銅器:銅鏡などの装飾のみならず道具作りに使われていた。
   銅で作った器物が出現、銅と錫の合金(青銅)の器物も発見された
埋葬:大多数の墓は一人用であった
   成年男女を合葬したものもあった。
   墓中からは多数の石器や陶器が陪葬品として見つかった。
   さらに地上には宗教建築のような石造の建築物もあった。

二里頭文化(にりとうぶんか)
時代:紀元前2000年頃から紀元前1600年頃
地域:河南省偃師市
   河南省中部・西部の鄭州市付近の伊河・洛河・潁河・汝河などの流域から、
   山西省南部の汾河下流一帯にかけてであるが、その影響は上流の陝西省南部や、
   南の長江中流域にも及んだと見られる。

概要:
殷初期と考えられる二里岡文化に先行する。

河南省偃師市の二里頭村で発見された新石器時代末期から青銅器時代にかけての都市・宮殿遺跡である。

1959年に発見されて以来発掘や研究が進められている。
1960年には規模の大きな宮殿の基壇が発見されており、中国初期王朝時代に属する最古の宮殿建築とされている。
二里頭遺跡は紀元前1800年から紀元前1500年頃の遺跡と見られ、中国の史書の夏の時期に相当するため、中国ではこの遺跡は夏王朝の都の一つと考えられている。
しかし都城・城壁の跡は発見されていない。
また文字資料は出土していない。

これまで発掘された二里頭遺跡は4期に分けられている。
1期および2期からは石器や陶器を作る工房が発見され、その基調は農村文化である。
3期と4期からは青銅器工房と宮殿が発見された。宮殿の遺跡は2つあり、一号宮殿址は南北100m、東西108mの方形の基壇の上に建てられ周囲には塀などが発見された。
そのすぐ近くにある二号宮殿址は東西58m、南北73mの基壇が発見され、その北に大きな墳墓があるため、祭祀のための施設とも考えられる。
近年はさらに大きな都市や道路の遺跡も発見されている。

中国の考古学界には二里頭遺跡がどの王朝の遺跡であったかに関して様々な推論がある。ひとつは1期から4期までの時期から夏朝の文物が出土していると見てこれを夏王朝の都とみる説であり、また1期と2期からは夏朝の文物が、3期と4期からは殷の文物が出土しているとして、大きな宮殿は殷の初期のものであると見る説である。

二里頭遺跡から約6km東には殷初期の大規模な都城遺跡が見つかっている(偃師商城)

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長江文明



長江文明とは中国長江流域で起こった複数の古代文明の総称。
黄河文明と共に中国文明の代表とされる。
文明の時期として紀元前14000年ごろから始まったと考えられている。

初期段階より稲作が中心であり、農耕も独自の経緯で発展したものと見られる。
長江文明の発見から稲(ジャポニカ米)の原産が長江中流域とほぼ確定され、
稲作の発祥もここと見られる。日本の稲作もここが源流と見られる。

中流域の屈家嶺文化(紀元前3000年頃から紀元前2600年頃)では稲を栽培した痕跡が発見されている。
また動物ではニワトリやイヌ、ブタ、ヤギなどの遺留物が発見されている。

下流域の河姆渡文化(紀元前5000年頃から紀元前4500年頃)では人工的かつ大規模に稲の栽培が行われていたことが明らかになった。
これは世界でも最古の稲栽培の例である。
狩猟や漁労も合わせて行われ、ブタの家畜化なども行われた。
良渚文化(紀元前3500年頃から紀元前2200年頃)の時代を最盛期として、
後は衰退し、中流域では黄河流域の二里頭文化が移植されている。

上流域の四川省成都市の北方にある三星堆遺跡から青銅製の等身大人物立像をはじめ,
青銅や黄金製の眼球の飛出た独特の仮面,大量の玉・象牙製品が出土した。
いずれも紀元前1700年頃から紀元前1200年頃の古代蜀文明のものと推定される。

大渓文化(紀元前5000年頃から紀元前3000年頃)の遺骨からモン・ミエン語族に関連するY染色体ハプログループO-M7が高頻度で発見されており、モン・ミエン系民族が担い手であったと考えられる。

かつて長江流域に栄えていた自然との結びつきの強い長江文明は、
黄河流域の文明に圧倒されることで歴史の表面からは消えてしまった。
貴州省や雲南省には多くの少数民族が住んでいるが、彼等は、長江文明を担った民族の生き残りであると言われている。
これら少数民族の文化は、とても自然との結びつきの強い文化でして、宗教は自然を神とする自然宗教である。

玉蟾岩遺跡(ぎょくせんがんいせき)
時代:紀元前14000年頃から紀元前12000年頃
遺跡:湖南省道県
稲モミが見つかっているが、栽培したものかは確定できない。

彭頭山文化(ほうとうざんぶんか)
時代: 紀元前7500年頃 - 紀元前6100年頃
地域:長江中流、湖南省北西部における新石器時代の文化
   北の黄河流域に栄えた裴李崗文化(はいりこうぶんか)とほぼ同時期に栄えた
遺跡:(標式遺跡)湖南省常徳市澧県
住居:最も初期の恒常的な集落の跡
農耕:稲の栽培がおこなわれていた
   紀元前7000年頃のコメのもみ殻などが発見された
土器:縄目の模様をつけられた土器(索文土器)が多く出土
石器:磨製石器
特長:平等主義であり、政治組織はほとんどなかったと考えられる


大渓文化(だいけいぶんか)
時代:紀元前5000年頃から紀元前3000年頃
遺跡:標式遺跡である重慶市巫山県瞿塘峡で発見
   代表的な遺跡には、湖南省常徳市澧県の城頭山遺跡がある
地域:重慶市及び湖北省から湖南省の三峡周辺及び両湖平原
住居:編みの泥壁のある家屋や、環濠集落なども発見されている
農耕:稲の栽培も大規模に行われた
・大渓文化は、長江下流のデルタ地帯との文化の交流があった
・白い皿などの遺物は、太湖周辺の馬家浜文化の遺跡からも発見された
・大渓文化の遺跡から発見されたヒスイの玉などの遺物は、馬家浜文化の影響
・大渓文化の遺骨からミャオ・ヤオ語族に関連するY染色体ハプログループO-M7が
 高頻度で発見されており、ミャオ・ヤオ語族系民族が担い手であった
ミャオ・ヤオ語族:
・故地は中国中部から南部と考えられる。
・中国南部の雲南、貴州、広西、湖南、湖北、四川などの地域に多く住んでいる
・歴史的には漢民族に圧迫されて南に移動したといわれており、現在ではさらに
 南のタイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムの山岳地帯にも住んでいる


屈家嶺文化(くつかりょうぶんか)
時代:紀元前3000年頃から紀元前2600年頃
地域:湖北省及び湖南省の長江中流域
文化:三峡から湖北省・湖南省の周辺で栄えた大渓文化を継承し、
   黄河中流の陝西省南部や河南省西南部、
   長江下流の江西省北部にも伝播した
   その後期は青竜泉文化(別名、湖北龍山文化)へとつながった
遺跡:標式遺跡である屈家嶺遺跡は、湖北省荊門市京山県の屈家嶺で発見
住居:定住して集落
農耕:稲を栽培した痕跡が発見されている
牧畜:ニワトリやイヌ、ブタ、ヤギなどの遺留物が発見されている
   十か所ほどの貯蔵用の穴には魚が蓄えられていた跡があった
土器:黄河流域の龍山文化とは出土する陶器に共通点がある
   墳墓の副葬品からは黒陶、特に器の厚さが非常に薄い卵殻陶が多く出土した
   大渓文化で発見される圏足器(大きく高い脚部をもつ器)が多く見られる
   鼎もそれより多く発見される
   建材として、焼いた土の塊を多く使っており、後のレンガの発達をうかがわせる
・屈家嶺文化独特の遺物としては、陶でできた鉢や彩色した紡錘車がある。
 彩色紡錘車は紡織の発達を示すものであり、石家河文化へも紡錘車は引き継がれた


石家河文化(せっかがぶんか)
時代:紀元前2500年頃から紀元前2000年頃
地域:湖北省の長江中流域にかけて存在した新石器時代後期の文化
   屈家嶺文化を継承した
遺跡:標式遺跡である石家河遺跡は、湖北省天門市石家河で発見された。
   遺跡の上層部は屈家嶺文化に属している
   代表的な遺跡には、湖南省常徳市澧県の城頭山遺跡がある

都市:長江流域で最初の都市遺跡を残した
   環濠集落から発展して大規模な城郭都市が築かれており、
   原始的な都城を構成したことにより屈家嶺文化と区別されている
文化:屈家嶺文化の特徴的な遺物である彩色紡錘車を継承
   灰陶などの陶器や陶製の人物像(塑像)
   ヒスイの玉製品は更に発達した製法が生み出されている
   銅鉱石や銅製品も遺跡より出土している



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河姆渡文化(かぼとぶんか)
時代:紀元前5000年頃から紀元前4500年頃
地域:杭州湾南岸から舟山群島にかけての地域
   (現在の浙江省東部、寧波市から舟山市)に広がっていた
遺跡:余姚市の河姆渡村の河姆渡遺跡から発見された
住居:干欄式建築(高床式住居)が数多く発見されている

農耕:水稲のモミが大量に発見された
   人工的かつ大規模に稲の栽培が行われていたことが明らかになった。
   世界でも最古の稲栽培の例
   木でできた柄のついた肩甲骨製の耜(シ、すき、田を耕す道具)
   ヒョウタン、ヒシ、ナツメ、ハス、ドングリ、豆などの植物が発見
牧畜:ヒツジ、シカ、トラ、クマ、サルなどの野生動物や
   魚などの水生生物、
   ブタ、イヌ、スイギュウなどの家畜も発見
養蚕:、紡錘や針など大量の紡織用の道具が発見
文化:
・石器は比較的少なく、石斧など工具として使われた磨製石器や装飾品
・木器や骨器は多く発見
・「木雕魚」は中国最古の木製装飾物である
・陶器は黒陶、紅陶、紅灰陶など1000度前後の比較的高い温度
 幾何学模様や植物紋、縄文などが刻まれており、
 中には人頭をかたどったものや船をかたどった土器もある

・河姆渡文化は、太湖周辺から杭州湾北部に分布した馬家浜文化
 とほぼ同時期にあたり、異なった文化が互いに影響しあいながら共存
・河姆渡遺跡には近くを流れる姚江が2回大きな洪水を起こし流路を変えた跡や、
 洪水で塩水が田を浸した跡などがあり、こうした災害から遺跡が放棄された

気候:
・微生物や花粉などの分析から、完新世の気候最温暖期の最中に栄えた
・杭州湾付近の海面水位は、今から7000年から5000年前までは海面は低い位置で安定
・5000年から3900年前には頻繁に氾濫していた



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馬家浜文化(ばかほうぶんか)
時代: 紀元前5000年頃から紀元前4000年頃
地域:長江河口付近の太湖から杭州湾北岸にかけての地域 遺跡:浙江省嘉興市の馬家浜(ばかほう)で遺跡(馬家浜遺跡)が発見
農耕:馬家浜文化の人々はコメを栽培していた。
   草鞋山遺跡では田の跡が発見されている。
畜産:ブタの飼育を行っていた痕跡や、ノロジカなども見つかっており、
   人々は動物の狩猟や飼育も行い、農業には全面的に依存していなかった
文化:ヒスイなどによる装飾品や比較的高い温度で焼いた紅陶、
   衣服の繊維なども発見されている。

其他:河姆渡文化(かぼとぶんか)とほぼ同時期に存在していたが、
   1000年以上にわたり別々の文化として共存し交流


崧沢文化(すうたくぶんか)
時代:紀元前3900年頃から紀元前3200年頃
地域:浙江省及び上海市の長江下流、太湖周辺
遺跡:上海市青浦区崧沢村で発掘された青浦崧沢遺跡を標式遺跡とする

農耕:籾殻など稲作の痕跡を示す
畜産:食べた獣や魚などの骨も見つかっている
文化:墓穴からは副葬品として多数の玉器が発見されている。
   また陶器では鼎などの調理器や食器が出土
   夾砂紅褐陶や泥質紅陶
   高温で焼いた黒陶、灰陶なども出土した
   土器片の中には、刻画紋や刻画符号などが刻まれているものもある

其他:社会は母系社会から父系社会に移る過渡期だったと考えられる
   馬家浜文化と、後代の良渚文化の中間期に存在した栄えた独自の文化


良渚文化(りょうしょぶんか)
時代:紀元前3500年から紀元前2200年
遺跡:浙江省の杭州市良渚で発掘された。崧沢文化などを継承しており、    黄河文明の山東竜山文化との関連も指摘されている
発掘:柱形・錐形・三叉形など多様な玉器    絹なども出土している    分業や階層化が進んでいたことが、殉死者を伴う墓などからうかがえる。

都市:良渚文化は稲作都市文明を形成
   1000年ほどの繁栄を経て、洪水でこの文化は崩壊
   土を突き固めた城壁や堀が出土

黄帝の三苗征服伝説を、黄河流域の中原に依拠した父系集団の龍山文化による
三苗(ミャオ族)征服の痕跡とみなし、
黄河文明と長江文明の勢力争いを描いたものとする見方もある



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其の他
仙人洞・吊桶環遺跡(せんにんどう・ちょうとうかんいせき)
時代:紀元前12000年頃
遺跡:(代表)江西省万年県
住居:仙人洞口
農耕:栽培した稲が見つかっており、それまで他から伝播してきたと考えられていた中国の農耕が中国独自でかつ最も古いものの一つだと確かめられた。

仙人洞口


陶罐,距今约1万年

呉城文化(ごじょうぶんか)
時代:紀元前1400年頃から紀元前1000年頃
地域:江西省から発見された青銅器時代の贛江中流・下流の文化。
   商王朝と同時代の文化
遺跡:(代表)江西省樟樹市呉城鎮の贛江沿岸にある、呉城遺跡に由来
   呉城文化の遺跡は江西省を中心に100以上発見されている
   樟樹市の呉城遺跡、瑞昌市の銅嶺遺跡、新干県の大洋洲遺跡の3つが大きい
土器:陶器や原始的な磁器(原始瓷器)製造の中心であり、幾何学的な文様が特徴
文字:文様の中には、未解読文字と考えられるものもある。
青銅器:青銅製の鐘(鐘の舌がない特殊な様式のもの)の出土でも知られる。
    吉安市新干県から出土した遺跡からは特有の様式の青銅器が多数出土

文化:
二里岡文化が長江付近まで勢力を伸ばしたことにより誕生したと考えられる。
長江文明の長い伝統と、強力な青銅器文化である二里岡文化の影響が交じり
合っているさまが呉城文化にはみられる。
呉城文化は四川盆地の三星堆遺跡、および黄河中流域の殷墟と同時代の文化


四川文明
宝墩文化(ほうとんぶんか)
時代:紀元前2500年頃から紀元前1750年頃
文化:四川省で発見された最古級の文化
   同じく四川省で発見された新石器時代の営盤山文化(紀元前3100年頃?)
   に影響を受けたとみられる
   また青銅器時代の三星堆遺跡に影響を及ぼしたと考えられる。
地域:長江上流の四川省成都平原で栄えた新石器時代の文化。
遺跡:この文化の標式遺跡であり最大の遺跡でもある宝墩遺跡(龍馬古城)は
   成都市新津県龍馬郷宝墩村で発見された。
   その他の遺跡には都江堰市の芒城遺跡、崇州市の双河遺跡と紫竹遺跡、
   郫県の古城遺跡、温江区の魚鳧遺跡といった大規模な囲壁集落遺跡があり、
   岷江扇状地・成都平原(成都市域)に集中する。

土器:縄紋のある花辺陶、尊、罐などの陶器も発見されており、
   三星堆遺跡から出る陶器との共通点がみられる。
住居:集落の周囲には、小石で覆った城壁がめぐらされており、
   この文化の特色のひとつとなっている。

三星堆文化(さんせいたいぶんか)
時代:紀元前1700年頃から紀元前1200年頃
地域:四川省徳陽市広漢市南興鎮の三星堆遺跡に代表される。

概要:
殷初期と考えられる二里岡文化に先行する。

河南省偃師市の二里頭村で発見された新石器時代末期から青銅器時代にかけての都市・宮殿遺跡である。

1959年に発見されて以来発掘や研究が進められている。
1960年には規模の大きな宮殿の基壇が発見されており、中国初期王朝時代に属する最古の宮殿建築とされている。
二里頭遺跡は紀元前1800年から紀元前1500年頃の遺跡と見られ、中国の史書の夏の時期に相当するため、中国ではこの遺跡は夏王朝の都の一つと考えられている。
しかし都城・城壁の跡は発見されていない。
また文字資料は出土していない。

これまで発掘された二里頭遺跡は4期に分けられている。
1期および2期からは石器や陶器を作る工房が発見され、その基調は農村文化である。
3期と4期からは青銅器工房と宮殿が発見された。宮殿の遺跡は2つあり、一号宮殿址は南北100m、東西108mの方形の基壇の上に建てられ周囲には塀などが発見された。
そのすぐ近くにある二号宮殿址は東西58m、南北73mの基壇が発見され、その北に大きな墳墓があるため、祭祀のための施設とも考えられる。
近年はさらに大きな都市や道路の遺跡も発見されている。

中国の考古学界には二里頭遺跡がどの王朝の遺跡であったかに関して様々な推論がある。ひとつは1期から4期までの時期から夏朝の文物が出土していると見てこれを夏王朝の都とみる説であり、また1期と2期からは夏朝の文物が、3期と4期からは殷の文物が出土しているとして、大きな宮殿は殷の初期のものであると見る説である。

二里頭遺跡から約6km東には殷初期の大規模な都城遺跡が見つかっている(偃師商城)

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遼河文明

遼河文明(りょうがぶんめい)とは、中国東北部の遼河流域で起こった中国の古代文明の一つ。
紀元前6200年ごろから存在したと考えられている。
大規模な竪穴式住居が出土しており、特に遼寧省凌源市から建平県で発見された紅山文化の遺跡の一つ牛河梁遺跡は広範囲にわたって墳墓や祭壇などの神殿が発見され、先史時代の「国」があったのではないかと考えられている。
紅山文化の遺跡からは風水の原型と見られるものも出土している。
興隆窪文化の遺跡からは中国最古の龍を刻んだヒスイなどの玉製品が発見されている。
また最古の遼寧式銅剣(琵琶形銅剣)や櫛目文土器などが出土している。

このように黄河文明や長江文明とは異なる文明でありながら、後の古代中国文明に大きな影響を与えたと考えられることから、現代でも大きく注目され盛んに研究されている。

同地帯は12,000年前頃から4000年前頃までは豊かな水資源に恵まれており、深い湖沼群や森林が存在したが、約4,200年前頃から始まった気候変動により砂漠化した。
このために約4,000年前頃から紅山文化の人々が南方へ移住し、後の中国文化へと発達した可能性が指摘されている。

遼河文明遺跡における6500年前から3600年前にかけての古人骨のY染色体ハプログループ分析では、ウラル系民族で高頻度に観察されるハプログループNが60%以上の高頻度で認められることから、遼河文明を担った集団が現代のウラル語族に近い人々であった可能性も考えられる。
夏家店上層文化の時代になると、ハプログループO2やハプログループC2がハプログループNにとって代わったようである。




興隆窪文化(こうりゅうわぶんか
時代:紀元前6200年頃から紀元前5400年頃
文化:紅山文化に先行する遼河流域の文明
   ヒスイなどの玉製品(玦 : けつ)の出土する文化としては中国最古    龍の出現する文化としても中国最古のものである
地域:モンゴル自治区から遼寧省にかけての遼河流域の文明
   遼河には東西に二つの源流がある    本流は河北省内に源泉を持つラオハ川(老哈河)である。
   ラオハ川は内蒙古自治区に入り、シラムレン川と合流して西遼河を為す
   吉林省方面から流れてくる東遼河と合流した後に遼河となる


遺跡:(標式遺跡)興隆窪遺跡    内モンゴル自治区赤峰市の敖漢旗の丘の南西麓
住居:竪穴式住居が120箇所発見され、各住居の中央にはかまどがあった
   興隆窪遺跡の中央には大きな建物があったほか
   中国でも初期の環濠(堀)も発見されている
   環濠の中は2万平方mもある大集落であった
農業:雑穀があった証拠が発見されており、
   興隆窪文化における唯一の農業の存在の証拠となっている
牧畜:ブタのつがいとともに葬られた遺骨もあった
土器:平底円筒状の、比較的低い温度で焼いた土器(陶器)が出土する
埋葬:いくつかの遺骨は住居の下に埋葬されていた
   墳墓などからもヒスイでできた玉が発見されている

新楽文化(しんらくぶんか)
時代:紀元前5200年頃から紀元前4800年頃
地域:新楽遺跡は中華人民共和国遼寧省瀋陽市の市街地の北部にある

概要:
新石器時代女系氏族の定住集落遺跡

趙宝溝文化(ちょうほうこうぶんか)
時代:紀元前5400年頃から紀元前4500年頃
文化:北方で栄えた新石器時代の文化
   狩猟・採集・漁労のほか、農耕も行ったとみられる
   末期に、大きな祭祀遺跡を築いた紅山文化が出現した。

   石鋤や石包丁などといった磨製石器や打製石器のほか、
   幾何学模様やシカ、イノシシといった動物の模様の刻まれた陶器が出土する
   また石や土で作った人型も出ている。

地域:内モンゴル自治区から河北省北部の灤河流域、
   およびシラムレン川とラオハ川沿いの地域(遼河上流域)で発見
   標式遺跡である趙宝溝遺跡は、内モンゴル自治区赤峰市敖漢旗

紅山文化(こうさんぶんか)
時代:紀元前4700年頃から紀元前2900年頃

文化:内モンゴル自治区の赤峰市で発見された紅山後遺跡に由来
   南の黄河流域の仰韶文化の中期および晩期に相当する
   遼河流域の文化は黄河流域の文化などとともに
   中華文明へと合流したという評価がなされている

地域:河北省北部から内モンゴル自治区東南部、遼寧省西部
   万里の長城より北方、燕山山脈の北から遼河支流の西遼河上流付近

気候:同地帯は12,000年前頃から4000年前頃までは豊かな水資源に恵まれており、
   深い湖沼群や森林が存在したが、
   約4,200年前頃から始まった気候変動により砂漠化した

   このために約4,000年前頃から紅山文化の人々が南方へ移住し、
   のちの中国文化へと発達した可能性が指摘されている

言語:アルタイ諸語の民族の中モンゴル諸語の祖となる言語や
   濊貊語の祖となる言語を話した?
   紅山文化時代の古人骨のY染色体ハプログループ分析によると、
   ウラル系諸族やヤクート人に高頻度で観察されるハプログループNが
   67%の高頻度で観察される。

風水:仰韶文化初期の遺跡から発見された遺物が語るように、
   紅山文化の遺跡からも初期の風水の証拠とされるものが見つかっている。
   牛河梁遺跡など、紅山文化の祭祀遺跡にみられる円形や方形は、
   天円地方の宇宙観がすでに存在していたことを示唆している。

祭祀:遼寧省凌源市から建平県にかけての広い範囲で発見された牛河梁遺跡
   からは紅山文化とかかわりの深い祭祀施設が発見されている
   5平方kmにおよぶ範囲に石を積んだ墳墓や祭壇が整然と分布している
   また石の床と彩色を施された壁のあった神殿が見つかり、
   目がヒスイでできた陶製の女性頭像が発見された

   女神廟の中には、人間の3倍近い大きさの陶製の像が並んでいた
   これらの像はおそらく神像であるが、現在の中国文化では類を見ない

   記念碑的な建築物の存在、また様々な土地との交易の証拠から、
   この時期には先史時代の「首長国」「王国」があったと考えられる

   付近の60以上の墳丘墓も発掘が行われたが、
   これらは石を組んで石室が作られ、その上に礫をかぶせて塚が作られ、
   玉などの遺物も発見されている
   近くの2箇所の丘の上にはケアンが発見され、
   その近くには石灰岩を段々に積み上げて作った円墳や方墳もある
   これらの墳丘墓の中からは龍や亀の彫刻が発見された
   紅山文化ではいけにえが捧げられたという指摘もある



遺跡:紅山文化の主な遺跡は西遼河上流の支流、潢水および土河の流域
発掘:ヒスイなどの石を彫って動物などの形にした装飾品が多く出土
   ブタ、トラ、鳥のほか、龍を刻んだものも見つかっている

   工芸の水準は高く、紅山文化の大きな特徴となっている
   紅山文化の玉龍(龍を彫った玉)の造形は単純であるが、
   後期になると盤龍・紋龍などの区別がはっきりとしてくる
   後に中原で始まった龍への崇拝は、紅山文化にその源を発する見方もある

農業:農業が主であった
   発見された石器は打製石器・磨製石器・細石器などであり、
   そのほとんどは農具で、石耜・石犁・石鋤などのすき類が多い。
牧畜:家畜を飼育しての畜産も発達しておりブタやヒツジが飼われた。
   一方では狩猟や採集などもあった
土器:紅山文化の陶器は、泥質紅陶および夾沙灰陶の2種類に分けられる
   泥で作り筆で絵付けした彩陶(彩文土器)は煮炊きや食事などに使われ、
   紋様が刻まれた夾沙灰陶は食事の盛り付けなどに使われた

   そのほかの陶器では、妊婦をかたどった胸像が各地から出土している
   仰韶文化のような彩陶文化は発達しなかったが、
   龍山文化の黒陶の洗練された造形には近いものがある

青銅:後期の遺跡からは青銅の環も発見されている

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夏家店下層文化(かかてんかそうぶんか)
時代:紀元前2000年頃から紀元前1500年頃
文化:同地域の紅山文化から続く現中国東北部、
   北西は内蒙古自治区東部のシラムレン川北岸から張家口にかけて、
   南東は河北省北部から遼寧省西部を中心とした文化



遺跡:(標式遺跡)内蒙古自治区赤峰市夏家店遺跡の下層
住居:多数の大規模集落が発見されており、
   北東アジアの乾燥、寒冷化が進行した紀元前二千年紀後半以降はもとより、
   戦国時代や前後漢の時期よりも人口密度が高かったと推定されている

   家は多くは円く、土と石で造られた
   集落は崖や急斜面のそばに造られて防御され、
   あるいは石壁が集落の周囲に立てられていた

農業:生活の中心は雑穀栽培
牧畜:遺跡からは豚、犬、羊、牛、鹿などが見つかっている
土器:土器・陶器や青銅器の様式などは殷(商)の物とよく似ている
   陶器は三足型、銅器・青銅器は耳輪型が多い

卜占:骨を使った卜占も行われた
殷文化に属する人々が北東へ移住した、或は逆に遼河文化に属する人々が
気候変動によって中原へ南下し殷文化を形成したと考えられている
同地域はその後、乾燥化と寒冷化が進み
生産様式の異なる牧畜を主とする夏家店上層文化が広まった

夏家店上層文化(かかてんじょうそうぶんか)
時代:紀元前1100年頃から紀元前500年頃
文化:中国東北部に栄えた青銅器文化
   北東の草原~丘陵地帯に居た後に東胡となる
   牧畜民の南下と同地の征服によって成立した文化

   同時代の黒竜江省大慶市肇源県の白金宝遺跡に代表される白金宝文化
   と密接な関連があり、また同時代の西周の影響も受けている

   燕の興隆に伴って征服された

地域:内蒙古自治区東部、河北省北部、遼寧省西部を中心とし、
   北はシラムレン川の北に達する

   同じ領域で先立つ夏家店下層文化よりもやや狭い範囲に広がり
   若干西寄りに位置する
   夏家店下層文化に比べると人口密度は低かったと推定されている



遺跡:(標式遺跡)内蒙古自治区赤峰市夏家店遺跡の上層
住居:夏家店下層文化に比べると恒久的な建築物が少なくなり、
   下層文化の建築物またはその材料の流用が多くなる

農業:大きく後退
牧畜:主に牧畜を行い
   家畜の骨の出土は、豚に代わり牛が増え、また馬が多く見られ、
   馬具や銅製車具も多く出ている

土器:陶器の製作に関する技術は大きく後退して直筒型の形状をした陶器が増え、
   食器の様式も底部を足底で支える底が深い様式から
   底が浅い平底の物へ変わっている

石器:石器が大きく発達し土器や骨器と共に多く出土している
青銅器の出土が増え、剣、槍、戈、鏃などがあり、
基本的に装飾が見られないか乏しくなっている
動物の頭部を模した特徴的な図柄が見られる

夏家店下層文化に比べ、支配者層と見られる物は副葬品を多数伴う墓が造られ、
南山根の石墓からは弁髪と思しき埋葬者の描かれた銅版も発見されている

墓制に関しては夏家店下層文化から大きな変化が見られない